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『アズレン』シナジー効果と史実を紐解く(3)戦艦三笠が歩んだ歴史:後編

おもに第二次世界大戦時の連合国及び枢軸国に所属していた艦船をモデルとしている艦が活躍する、艦船擬人化シューティングRPG『アズールレーン』(以下『アズレン』)。 この『アズレン』に降臨した伝説の戦艦「三笠」。前編では彼女が掴んだ栄光の歴史について記したが、後編では日本海海戦後のことを書かせてもらおうと思う。

近代国家として産声をあげたばかりの日本という小国が、世界の一流国家へと這い上がる力となった三笠。焦土と化した国土の中から、屈辱にまみれながらも復活した三笠。そんな三笠のことを、できるだけ多くの方に知ってほしいと思う。

 

三笠の復活

1905年(明治38年)9月11日に佐世保港内で爆発事故を起こし、海中に没した戦艦三笠。幸い水深が浅い港湾内での事故だったため、1906年(明治39年)8月8日、浮揚に成功する。

佐世保工廠に運びこまれた三笠は修理され、1908年(明治41年)4月24日に現役に復帰した。しかしその後は目立った活躍もなく、1913年(大正2年)には三笠と同じヴィッカース社で建造された最新鋭の巡洋戦艦「金剛」が就役。

1914年には(大正3年)には金剛型二番艦の「比叡」が竣工。1915年(大正4年)には三番艦「榛名」、四番艦「霧島」と、続々と新型の戦艦が建造され、帝国海軍の戦列を埋めていく。

かつて連合艦隊旗艦として華々しく活躍した「三笠」の海軍内での序列は、徐々に下がりつつあった。


▲金剛型巡洋戦艦・比叡は、既に『アズレン』にも実装されている。金剛型は4隻が建造されたが、ヴィッカース社製の物はネームシップの金剛のみで、比叡・榛名・霧島は金剛の設計を参考にして日本国内で建造された。

警備任務や救援任務など、様々な役割を必死に果たしていた「三笠」だったが、1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦へと等級が変更される。これは「三笠」は前線任務にはもはや適さないと認定されたことを意味するものだった。

こうして、「三笠」の戦いの歴史は終わりを告げた。

 

三笠の廃艦

1922年(大正11年)に締結された軍縮条約であるワシントン条約。この条約では列強諸国の主力艦艇の保有量が定められたが、既に老朽化している「三笠」も戦艦として認定されてしまう。

貴重な主力艦艇の枠を「三笠」に割くわけにもいかず、「三笠」の廃艦が決定される。廃艦間近となった三笠に対し、さらに過酷な運命が襲い掛かる。三笠は1923年(大正12年)に発生した関東大震災の際に岸壁に激突し、進水を起こし着底してしまったのだ。

着底状態のまま海軍からも除籍。かつて日本を救った英雄は、もはや見る影もないありさまとなった。

 

記念館・三笠

除籍後は解体されることが決まっていた三笠だったが、三笠を愛する人々からは、記念艦として保存すべきとの声が沸き起こった。日本は列強諸国に対し、三笠を軍艦としての認定から外すための特別除外申請を行ない、再び軍艦として使用できない状態での保存を条件に、三笠を記念艦にすることが認められる。

1924年(大正13年)には東郷平八郎元帥が名誉会長となり、三笠保存会が発足。砲はダミーの木製に置き換え、下甲板にはコンクリートを注入し、舳先を皇居に向ける形で「三笠」は海底に固定される。

1925年(大正14年)。三笠は記念艦として、横須賀の海を見つめながら第2の艦歴を刻み始めたのだった。


▲記念艦三笠(2017年12月6日撮影)

 

敗戦、そして三笠は……

1941年(昭和16年)12月8日。日本は太平洋戦争に突入する。戦時中も三笠は横須賀の岸壁に固定されたままとなっていた。

1945年(昭和20年)8月15日。敗戦。横須賀港は空襲や機銃掃射を受けるが、「三笠」が損害を被ることはなかった。

敗戦後、「三笠」は進駐軍に接収され、艦橋、マスト、煙突などの上甲板構造物すべてが撤去。娯楽施設が設置されてしまう。キャバレー・トーゴーが開かれ、ダンスホールや水族館が設置されるという屈辱的な状況に甘んじる「三笠」。


▲1950年代に撮影された三笠。甲板は人で埋め尽くされている(画像はWikipediaより)


▲現在の三笠と上の写真を比較すると、建物があった部分に今はマストや艦橋、レプリカの砲があることが分かる

 

しかし、そんな「三笠」の惨状を知り、立ち上がった人間がいた。

それは大戦中にアメリカ太平洋艦隊・司令長官兼太平洋戦域最高司令官として日本軍との激闘を戦い抜いたチェスター・ニミッツ元帥その人だった。


▲ ニミッツ元帥はアメリカ合衆国の全権代理人の一人として、戦艦ミズーリで日本降伏受託書に署名した人物でもある(画像はWikipediaより)

 

ニミッツ元帥は士官候補生時代に1905年(明治38年)に東京で開かれた日本海海戦の戦勝祝賀会に出席したことがあった。その席で、ニミッツは東郷元帥と出会い、言葉を交わしたことにより東郷の熱烈なファンとなる。

1934年(昭和9年)に東郷元帥が亡くなったときには、アメリカ海軍アジア艦隊重巡洋艦「オーガスタ」の艦長だったニミッツ(当時は大佐)も参列している。かような縁もあり、ニミッツ元帥は尊敬する東郷元帥の乗艦であった「三笠」がぞんざいに扱われたことを嘆き、海兵隊を歩哨に立たせた。

それでもなお、戦中戦後の深刻な物資不足や朝鮮戦争による金属価格の高騰もあり、三笠は金属類や木材をひきはがされて見るも無残な姿へとなり果ててしまう。

未だ戦争の傷が癒えていない状況下、その後しばらく、荒廃した三笠を顧みる者はいなかった。

 

三笠の復元運動

戦争の記憶も徐々に遠ざかり始めた1955年(昭和30年)ごろから、三笠の復元運動を行なおうという声が上がり始める。

多くの心ある人が動き始めたが、その中でも特に大きな働きをしたのが、イギリス人のジョン・S・ルービン氏だ。

ルービン氏はかつて「三笠」が建造された時期に近くで商売をしており、「三笠」乗員がルービン氏の店を訪れたこともあり、「三笠」に親しみを持っていた。

商用で日本を訪れたルービン氏は、57年ぶりに見た「三笠」が見るも無残な姿に成り果てていたことに慨嘆し、「ジャパン・タイムス」に三笠の現状を投書。アメリカ人やオーストラリア人から大きな反響が巻き起こった。

ニミッツ元帥も『文藝春秋』に 「三笠と私」 という文を寄せ、原稿料を寄付すると訴えた。このニミッツ元帥の行動により、日本人の中でも「三笠」復元の機運が一気に盛り上がる。

さらに元帥は、米軍に働きかけ廃艦となった揚陸艦1隻を日本に寄付させる。揚陸艦のスクラップ売却代金は3000万円にものぼり、三笠の復元用工費の1/6を賄うことができた。日本国内からも多くの浄財が寄せられ、昭和36年5月。遂に「三笠」は復元された。

 

横須賀の海を見守り続け


▲三笠と東郷元帥は今も寄り添っている

昭和は終わり、平成の世も間もなく過ぎゆこうとしているが、記念艦「三笠」は今もなお、横須賀の海にその姿を留めている。もし興味を持たれた方がいたら、是非一度、「三笠」を訪れることをお勧めする。激動の歴史を生き抜いた「三笠」のことをさらに詳しく知ることが出来るだろう。

横須賀の港には米軍や自衛隊の艦艇がしばしば寄港している。

「YOKOSUKA軍港めぐり」というクルージングツアーも行われているので、船に興味がある方は、ぜひ一度参加することをお勧めしたい。運が良ければ現役で稼働している様々な艦艇を見ることが出来るだろう。


▲12月6日、記念艦「三笠」上にて建造に成功した筆者の三笠。「三笠」が三笠を呼んでくれたのだと筆者は信じている

 

(参考文献)

角川書店「海戦から見た日露戦争」
学研「日露戦争兵器・人物事典」
光人社「写真 日本の軍艦 戦艦Ⅱ」
三笠保存会「記念艦三笠」


『アズールレーン』公式サイト

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